2015-07-30(Thu)
I am in NEPAL Now! Ⅱ
I am in NEPAL Now!
(震災後2回目の訪問)
第二回目のヘリトライ、7/27昼、カトマンズ着。…滞在4日間… 2015.07/27-30
まだ雨季は続いていたがカトマンズ2日目の朝、ホテルの窓を開けるとそこに白い山が見えた。カトマンズから見えるガネッシュヒマールの山々だった。急ぎ空港へ向かうが、その間にも周辺の雲が消え始め、上空の青空の比率が多くなって行く。さていよいよ飛べる。カトマンズの国際空港であるトリフバン空港からランタン谷へはヘリで約25分の距離である。カトマンズ盆地を過ぎ、やがて山岳地帯になると、小規模ではあるがおそらく地震によるものと思われる崖崩れの後が所々に見られた。ランタンに近づくとまずこの地域の主峰であるランタンリルンが大きく顔をみせてくれた。ランタンの登山口であるシャブルベンシを左下に見ながら、いよいよヘリはランタン谷に入る。

(ランタン谷を下流からさかのぼると、ユル地区の崩壊場所が見え始めた)
ヘリが谷に入り、ゴラタベラの上空辺りに来ると、緑の谷間の中に舌状に広がる灰色の部分が見え始めた。広大な地域が土砂と岩で覆われていた。土と岩の中に、建物の残骸と思われる瓦礫が混じっていた。窓枠の様なもの、シートの様なもの、その他諸々…。山の中の単なる崖崩れでは無く、その場所で村人達の生活があったことが分かる。その広大な崩壊と瓦礫の上空を通過するとき、涙が出てきた。
この下には、まだ百人を超える、村人達や海外からのトレッカー達が行方不明のままで埋まっているのだ。
その後、ヘリはキャンジンへ着陸。当初遠巻きに見ていた村人達がヘリの周りに集まり出す。若者はいなく、お年寄りと女性の姿が多い。実はランタン村で被災した皆さんは、カトマンズに一時避難しているが、カトマンズの喧噪と暑さに耐えられなくなったお年寄り達が一人一人とランタンに戻りつつあり、そのほとんどの方達はキャンジンで崩れた家々にシートを被せたり、壁を補強したりして、最小限の暮らししている。持参した雨具、タープ、テントなどの支援物資を皆さんに配布。ランタンに家を持つ日本人の溝口宜勝さんが出迎えてくれる。ユル地区の家は無くなり、キャンジンの家も壊れたそうだ。


その後、ヤラピークのBC上空まで登山ルートの調査飛行をした。キャンギンからヤラカルカを経てヤラピークBCへ向かう登山道はツエルゴリ(4999m)の山麓を大きく巻くように登る。そして何度となく訪れたBCとその上に見慣れたヤラピーク(5520m)もガスの切れ間から見えた。そのすべての登山道に、上空から崩れた場所は発見できなかった。異常なしだ。谷は日差しを浴びて穏やかだった。いつもと変わらないランタン谷がそこに有った。ユル地区を除いて…。

(ギャンジンの対岸、高度5000m付近より、北側のギャンジン地区とキムシュン峰を見る)


シャブルベンシからの山道はシェルパゴンまでは通れるが、そこから先は全滅状態で入山禁止となっている。所々で崖崩れ跡が残るのはラマホテル~ゴラタベラ間となり、ユル地区の大きな崩壊場所周辺より上流に関しては、上空から見た限りは道に変化無し。キャンジンから上流域の道、またツェルゴリやそのツェルゴリをトラバースする形であるヤラピーク方面への登山道場には崩壊が無く、普通に通れそうだ。ヤラピークそのものにも変化無く、BC付近も穏やかだった。つまりランタン谷に入るには、地震後二ヶ月を過ぎた時点でもヘリコプターを使う手段のみとなる。
溝口さんからの支援依頼もあり、次は10月の秋にまたランタンにいく。
いつも私は、i am in Nepal now!

(震災後2回目の訪問)
第二回目のヘリトライ、7/27昼、カトマンズ着。…滞在4日間… 2015.07/27-30
まだ雨季は続いていたがカトマンズ2日目の朝、ホテルの窓を開けるとそこに白い山が見えた。カトマンズから見えるガネッシュヒマールの山々だった。急ぎ空港へ向かうが、その間にも周辺の雲が消え始め、上空の青空の比率が多くなって行く。さていよいよ飛べる。カトマンズの国際空港であるトリフバン空港からランタン谷へはヘリで約25分の距離である。カトマンズ盆地を過ぎ、やがて山岳地帯になると、小規模ではあるがおそらく地震によるものと思われる崖崩れの後が所々に見られた。ランタンに近づくとまずこの地域の主峰であるランタンリルンが大きく顔をみせてくれた。ランタンの登山口であるシャブルベンシを左下に見ながら、いよいよヘリはランタン谷に入る。

(ランタン谷を下流からさかのぼると、ユル地区の崩壊場所が見え始めた)
ヘリが谷に入り、ゴラタベラの上空辺りに来ると、緑の谷間の中に舌状に広がる灰色の部分が見え始めた。広大な地域が土砂と岩で覆われていた。土と岩の中に、建物の残骸と思われる瓦礫が混じっていた。窓枠の様なもの、シートの様なもの、その他諸々…。山の中の単なる崖崩れでは無く、その場所で村人達の生活があったことが分かる。その広大な崩壊と瓦礫の上空を通過するとき、涙が出てきた。
この下には、まだ百人を超える、村人達や海外からのトレッカー達が行方不明のままで埋まっているのだ。
その後、ヘリはキャンジンへ着陸。当初遠巻きに見ていた村人達がヘリの周りに集まり出す。若者はいなく、お年寄りと女性の姿が多い。実はランタン村で被災した皆さんは、カトマンズに一時避難しているが、カトマンズの喧噪と暑さに耐えられなくなったお年寄り達が一人一人とランタンに戻りつつあり、そのほとんどの方達はキャンジンで崩れた家々にシートを被せたり、壁を補強したりして、最小限の暮らししている。持参した雨具、タープ、テントなどの支援物資を皆さんに配布。ランタンに家を持つ日本人の溝口宜勝さんが出迎えてくれる。ユル地区の家は無くなり、キャンジンの家も壊れたそうだ。


その後、ヤラピークのBC上空まで登山ルートの調査飛行をした。キャンギンからヤラカルカを経てヤラピークBCへ向かう登山道はツエルゴリ(4999m)の山麓を大きく巻くように登る。そして何度となく訪れたBCとその上に見慣れたヤラピーク(5520m)もガスの切れ間から見えた。そのすべての登山道に、上空から崩れた場所は発見できなかった。異常なしだ。谷は日差しを浴びて穏やかだった。いつもと変わらないランタン谷がそこに有った。ユル地区を除いて…。

(ギャンジンの対岸、高度5000m付近より、北側のギャンジン地区とキムシュン峰を見る)


シャブルベンシからの山道はシェルパゴンまでは通れるが、そこから先は全滅状態で入山禁止となっている。所々で崖崩れ跡が残るのはラマホテル~ゴラタベラ間となり、ユル地区の大きな崩壊場所周辺より上流に関しては、上空から見た限りは道に変化無し。キャンジンから上流域の道、またツェルゴリやそのツェルゴリをトラバースする形であるヤラピーク方面への登山道場には崩壊が無く、普通に通れそうだ。ヤラピークそのものにも変化無く、BC付近も穏やかだった。つまりランタン谷に入るには、地震後二ヶ月を過ぎた時点でもヘリコプターを使う手段のみとなる。
溝口さんからの支援依頼もあり、次は10月の秋にまたランタンにいく。
いつも私は、i am in Nepal now!
