2017-08-08(Tue)
川名匡の山に遊ぶインフォメーション
・山のスケジュール、・企画ガイドのお知らせ、・個人ガイドのお知らせ、 山の報告、等々を展開します。
2016-08-15(Mon)
PEAKSに紹介されました
2016-04-11(Mon)
I am in NEPAL Now ! Ⅲ
I am in NEPAL Now ! Ⅲ
川名匡 震災後ネパール訪問始末記 (その3)
地震による懸垂氷河の崩壊と土砂流出で壊滅したユル地区の空撮画
2回目の訪問、1回目のフライトでの、ランタン谷ユル地区付近の空撮状況
2015.07/23

谷を上流から崩壊地へと飛ぶ。
ちょうど村の建物が集中している場所を直撃した…

氷河崩壊の強烈な爆風で対岸の木々が根こそぎなぎ倒されていた。
倒木の倒れた方向でその時の爆風の動きが分かる。かなり広範囲(ユル地区対岸の斜面)

崩壊の直撃は免れたモノの、爆風で破壊されたと思われる崩壊箇所北側に有った住居の瓦礫。
この辺りからは遺体が見つかったが、崩壊直撃箇所については土砂が積み重なり捜索は困難という。

崖下にあり、ユル地区で唯一全壊を免れたゴンパ(お寺)
崖の真下のさらにひさしのような岩の窪地にあり、奇跡というほかはない…。

ユル地区のさらに下流域にある崖崩れ跡。この他にもこの規模の崖崩れは無数に見えた。
斜面をトラバースしている道が寸断されているのが分かる。
(場所はゴラタベラの少し下流域)

支援物資を配った後での村人達との記念写真。(ギャンジン地区にて)
バックに見える建物は一軒壊れていないように見えるが、ほぼ全ての家の屋根が落ちている。
いったんヘリはここに着陸し、支援物資を配り重量的に身軽になった後、
ヤラピークのベースキャンプ付近まで飛び、登山ルート等の上空からの調査をした。
この後、さらに10月にもヘリをチャーターし、支援物資(10月は食糧品)を運んだ。
地震被害の支援は、この2015年に三回訪問し、そのうち2回ヘリコプターにてランタン村への支援物資搬入、
そしてカトマンズ市内のボランティア団体施設などへもタープなどを運んだ。
私の呼びかけに答えてくれた方達からの支援金が50万ほど集まり、
全ての費用の3分の1ほどはまかなえたが、残りは我々の自費となった。
でも実際にこの足で行って本当に良かった。日本にいると分からないことばかりあり、
やはりこの目で見ないとダメだとよくわかった。
この場をお借りして、今回支援協力をしていただいて皆さんに、御礼申し上げます。
一緒にヘリに乗った、杉山勉さん、森山憲一さん、そしてウダヤさん(現地シーガルトラベル)、
ありがとうございました。そしてお疲れ様。
但し、まだまだネパールには支援を必要としている人達がいます。
また行きます。
心はいつも、I am in NEPAL Now!
2015.07/30 川名匡

川名匡 震災後ネパール訪問始末記 (その3)
地震による懸垂氷河の崩壊と土砂流出で壊滅したユル地区の空撮画
2回目の訪問、1回目のフライトでの、ランタン谷ユル地区付近の空撮状況
2015.07/23

谷を上流から崩壊地へと飛ぶ。
ちょうど村の建物が集中している場所を直撃した…

氷河崩壊の強烈な爆風で対岸の木々が根こそぎなぎ倒されていた。
倒木の倒れた方向でその時の爆風の動きが分かる。かなり広範囲(ユル地区対岸の斜面)

崩壊の直撃は免れたモノの、爆風で破壊されたと思われる崩壊箇所北側に有った住居の瓦礫。
この辺りからは遺体が見つかったが、崩壊直撃箇所については土砂が積み重なり捜索は困難という。

崖下にあり、ユル地区で唯一全壊を免れたゴンパ(お寺)
崖の真下のさらにひさしのような岩の窪地にあり、奇跡というほかはない…。

ユル地区のさらに下流域にある崖崩れ跡。この他にもこの規模の崖崩れは無数に見えた。
斜面をトラバースしている道が寸断されているのが分かる。
(場所はゴラタベラの少し下流域)

支援物資を配った後での村人達との記念写真。(ギャンジン地区にて)
バックに見える建物は一軒壊れていないように見えるが、ほぼ全ての家の屋根が落ちている。
いったんヘリはここに着陸し、支援物資を配り重量的に身軽になった後、
ヤラピークのベースキャンプ付近まで飛び、登山ルート等の上空からの調査をした。
この後、さらに10月にもヘリをチャーターし、支援物資(10月は食糧品)を運んだ。
地震被害の支援は、この2015年に三回訪問し、そのうち2回ヘリコプターにてランタン村への支援物資搬入、
そしてカトマンズ市内のボランティア団体施設などへもタープなどを運んだ。
私の呼びかけに答えてくれた方達からの支援金が50万ほど集まり、
全ての費用の3分の1ほどはまかなえたが、残りは我々の自費となった。
でも実際にこの足で行って本当に良かった。日本にいると分からないことばかりあり、
やはりこの目で見ないとダメだとよくわかった。
この場をお借りして、今回支援協力をしていただいて皆さんに、御礼申し上げます。
一緒にヘリに乗った、杉山勉さん、森山憲一さん、そしてウダヤさん(現地シーガルトラベル)、
ありがとうございました。そしてお疲れ様。
但し、まだまだネパールには支援を必要としている人達がいます。
また行きます。
心はいつも、I am in NEPAL Now!
2015.07/30 川名匡

2015-07-30(Thu)
I am in NEPAL Now! Ⅱ
I am in NEPAL Now!
(震災後2回目の訪問)
第二回目のヘリトライ、7/27昼、カトマンズ着。…滞在4日間… 2015.07/27-30
まだ雨季は続いていたがカトマンズ2日目の朝、ホテルの窓を開けるとそこに白い山が見えた。カトマンズから見えるガネッシュヒマールの山々だった。急ぎ空港へ向かうが、その間にも周辺の雲が消え始め、上空の青空の比率が多くなって行く。さていよいよ飛べる。カトマンズの国際空港であるトリフバン空港からランタン谷へはヘリで約25分の距離である。カトマンズ盆地を過ぎ、やがて山岳地帯になると、小規模ではあるがおそらく地震によるものと思われる崖崩れの後が所々に見られた。ランタンに近づくとまずこの地域の主峰であるランタンリルンが大きく顔をみせてくれた。ランタンの登山口であるシャブルベンシを左下に見ながら、いよいよヘリはランタン谷に入る。

(ランタン谷を下流からさかのぼると、ユル地区の崩壊場所が見え始めた)
ヘリが谷に入り、ゴラタベラの上空辺りに来ると、緑の谷間の中に舌状に広がる灰色の部分が見え始めた。広大な地域が土砂と岩で覆われていた。土と岩の中に、建物の残骸と思われる瓦礫が混じっていた。窓枠の様なもの、シートの様なもの、その他諸々…。山の中の単なる崖崩れでは無く、その場所で村人達の生活があったことが分かる。その広大な崩壊と瓦礫の上空を通過するとき、涙が出てきた。
この下には、まだ百人を超える、村人達や海外からのトレッカー達が行方不明のままで埋まっているのだ。
その後、ヘリはキャンジンへ着陸。当初遠巻きに見ていた村人達がヘリの周りに集まり出す。若者はいなく、お年寄りと女性の姿が多い。実はランタン村で被災した皆さんは、カトマンズに一時避難しているが、カトマンズの喧噪と暑さに耐えられなくなったお年寄り達が一人一人とランタンに戻りつつあり、そのほとんどの方達はキャンジンで崩れた家々にシートを被せたり、壁を補強したりして、最小限の暮らししている。持参した雨具、タープ、テントなどの支援物資を皆さんに配布。ランタンに家を持つ日本人の溝口宜勝さんが出迎えてくれる。ユル地区の家は無くなり、キャンジンの家も壊れたそうだ。


その後、ヤラピークのBC上空まで登山ルートの調査飛行をした。キャンギンからヤラカルカを経てヤラピークBCへ向かう登山道はツエルゴリ(4999m)の山麓を大きく巻くように登る。そして何度となく訪れたBCとその上に見慣れたヤラピーク(5520m)もガスの切れ間から見えた。そのすべての登山道に、上空から崩れた場所は発見できなかった。異常なしだ。谷は日差しを浴びて穏やかだった。いつもと変わらないランタン谷がそこに有った。ユル地区を除いて…。

(ギャンジンの対岸、高度5000m付近より、北側のギャンジン地区とキムシュン峰を見る)


シャブルベンシからの山道はシェルパゴンまでは通れるが、そこから先は全滅状態で入山禁止となっている。所々で崖崩れ跡が残るのはラマホテル~ゴラタベラ間となり、ユル地区の大きな崩壊場所周辺より上流に関しては、上空から見た限りは道に変化無し。キャンジンから上流域の道、またツェルゴリやそのツェルゴリをトラバースする形であるヤラピーク方面への登山道場には崩壊が無く、普通に通れそうだ。ヤラピークそのものにも変化無く、BC付近も穏やかだった。つまりランタン谷に入るには、地震後二ヶ月を過ぎた時点でもヘリコプターを使う手段のみとなる。
溝口さんからの支援依頼もあり、次は10月の秋にまたランタンにいく。
いつも私は、i am in Nepal now!

(震災後2回目の訪問)
第二回目のヘリトライ、7/27昼、カトマンズ着。…滞在4日間… 2015.07/27-30
まだ雨季は続いていたがカトマンズ2日目の朝、ホテルの窓を開けるとそこに白い山が見えた。カトマンズから見えるガネッシュヒマールの山々だった。急ぎ空港へ向かうが、その間にも周辺の雲が消え始め、上空の青空の比率が多くなって行く。さていよいよ飛べる。カトマンズの国際空港であるトリフバン空港からランタン谷へはヘリで約25分の距離である。カトマンズ盆地を過ぎ、やがて山岳地帯になると、小規模ではあるがおそらく地震によるものと思われる崖崩れの後が所々に見られた。ランタンに近づくとまずこの地域の主峰であるランタンリルンが大きく顔をみせてくれた。ランタンの登山口であるシャブルベンシを左下に見ながら、いよいよヘリはランタン谷に入る。

(ランタン谷を下流からさかのぼると、ユル地区の崩壊場所が見え始めた)
ヘリが谷に入り、ゴラタベラの上空辺りに来ると、緑の谷間の中に舌状に広がる灰色の部分が見え始めた。広大な地域が土砂と岩で覆われていた。土と岩の中に、建物の残骸と思われる瓦礫が混じっていた。窓枠の様なもの、シートの様なもの、その他諸々…。山の中の単なる崖崩れでは無く、その場所で村人達の生活があったことが分かる。その広大な崩壊と瓦礫の上空を通過するとき、涙が出てきた。
この下には、まだ百人を超える、村人達や海外からのトレッカー達が行方不明のままで埋まっているのだ。
その後、ヘリはキャンジンへ着陸。当初遠巻きに見ていた村人達がヘリの周りに集まり出す。若者はいなく、お年寄りと女性の姿が多い。実はランタン村で被災した皆さんは、カトマンズに一時避難しているが、カトマンズの喧噪と暑さに耐えられなくなったお年寄り達が一人一人とランタンに戻りつつあり、そのほとんどの方達はキャンジンで崩れた家々にシートを被せたり、壁を補強したりして、最小限の暮らししている。持参した雨具、タープ、テントなどの支援物資を皆さんに配布。ランタンに家を持つ日本人の溝口宜勝さんが出迎えてくれる。ユル地区の家は無くなり、キャンジンの家も壊れたそうだ。


その後、ヤラピークのBC上空まで登山ルートの調査飛行をした。キャンギンからヤラカルカを経てヤラピークBCへ向かう登山道はツエルゴリ(4999m)の山麓を大きく巻くように登る。そして何度となく訪れたBCとその上に見慣れたヤラピーク(5520m)もガスの切れ間から見えた。そのすべての登山道に、上空から崩れた場所は発見できなかった。異常なしだ。谷は日差しを浴びて穏やかだった。いつもと変わらないランタン谷がそこに有った。ユル地区を除いて…。

(ギャンジンの対岸、高度5000m付近より、北側のギャンジン地区とキムシュン峰を見る)


シャブルベンシからの山道はシェルパゴンまでは通れるが、そこから先は全滅状態で入山禁止となっている。所々で崖崩れ跡が残るのはラマホテル~ゴラタベラ間となり、ユル地区の大きな崩壊場所周辺より上流に関しては、上空から見た限りは道に変化無し。キャンジンから上流域の道、またツェルゴリやそのツェルゴリをトラバースする形であるヤラピーク方面への登山道場には崩壊が無く、普通に通れそうだ。ヤラピークそのものにも変化無く、BC付近も穏やかだった。つまりランタン谷に入るには、地震後二ヶ月を過ぎた時点でもヘリコプターを使う手段のみとなる。
溝口さんからの支援依頼もあり、次は10月の秋にまたランタンにいく。
いつも私は、i am in Nepal now!

2015-06-30(Tue)
NEPAL震災後の出来事

ランタン谷は私にとって思い入れがとてもある場所。
初めてのネパール遠征をした時に訪れたのがその始まりであり、
ランタンが大好きになったきっかけででもある。
またランタンは首都カトマンズから直線で約50㎞と近く、
その後も何度となく訪れている。
今年の4月下旬、そのランタン谷が大変なことになった。
最初に届いたランタンの情報は、壊滅的とか全滅とか、谷全体が埋まる…。
という様な、センセーショナルなものばかりだった。
2015年4月25日11時56分にネパールの首都カトマンズ北西77km付近、ガンダキ県ゴルカ郡サウラパニの深さ15kmを震源として地震が発生した。地震の規模はMw7.8(※)と推定。1934年ビハール・ネパール地震(M8.1)から約80年経って発生した巨大地震だった。80年前の地震を経験して、さらに記憶に残っている人はすでに少なく、さぞかしネパールの人達は驚き、また恐怖であっただろう。その時の状況をネパールの友人達に聞くと、「この世の終わりがきた」「もうみんな死ぬんだ」と思ったという人が少なくない。SNS等で繋がっている友人達とコンタクトをとるが、地震発生から一ヶ月ほどの間は、ほとんど悲観的な答えしか戻ってこなかった。世話になっている現地のエージェントと連絡を取り、今すぐにでもそちらに行きたいと言っても、今は来ない方が良い、危ないから来るな。という答えがしばらく続いた。そして5月も下旬になり、日本ではネパール地震のニュースもほとんど流れなくなった頃、ネパールに来て欲しいという打診もあり、こちらのスケジュールも調整し、やっと行ける段取りが整った。


今回の目的は何か、まずはこの目でランタン谷を見てみたい。また山岳ガイドという視点から、ランタン谷のルート状況をこの目で確かめたい。そしてランタン村の人達や友人のシェルパ達に支援物資を届けたい。陸路は当然無理なので、谷の中では地震の影響が比較的少ないとの情報のあるギャンジンまで、ヘリコプターを自費でチャーターすることになった。自費チャーターは正直きつかったが、後日賛同者も現れて同行者3名+支援金でまかなえることになった。
支援物資は、現地に確認したところ、雨具とテントとタープという事で、まずSNSの知り合いや親しくしていただいている山のお客様に声をかけ、テントや雨具が集まった。皆さんから支援金も集まり準備万端となった。
第一回目 6/22深夜便にてカトマンズへ。…滞在4日間… 2015.06/22-25
仕事の予定もあり、やっとスケジュールが空いた。夕方に山での仕事が終わり、その足で空港へ向かった。バンコク経由で翌日昼にカトマンズ着。カトマンズは思いの外にいつも通りだった。空港周辺には崩壊しているビルも無く、半年前(2014/7月)訪れた時と変わらないカトマンズがそこにあった。ニュースに写る画像は、崩壊したビルと瓦礫の山、逃げ惑う人々…そんな場面で世界へ発信される映像はストップしていたんだ。何でいつも通りに戻っているカトマンズを放送しない?やはり瓦礫の山に比べ、平時に戻ったカトマンズはニュースソースとしては薄いのか?そのせいなのか、カトマンズを訪れる観光客は激減。ネパールにおける外貨収入のほとんどを占める観光業だけがストップしていた。夜、食事に招待したカトマンズ在住のシェルパは、地震以来全く仕事が無いという。「地震では助かったが、お仕事無くて死ぬよ」の言葉に切羽詰まる思いがするが、いつもひょうきんな彼が、「でも頑張るよ~」と笑っていう。現地の友人達と次々に連絡を取り実際に会う。幸い連絡の取れた友人達の中には、家が破損した程度で大きな被害を受けた者はいなかった。但、色々と地震の話を聞くと、皆一様に暗い顔になる。
カトマンズ滞在3日間、毎朝四時起きで晴れ間を待ちヘリフライト待機をしたが、日本での仕事があり、どうしても帰らなくてはならない為、結局ヘリは飛べず帰る事になる。寂しい雨季のネパールだった。




今回、ヘリの手配をしてくれたウダヤさん(シーガルトラベル NEPAL)
天候回復せずヘリが飛べない…何度もヘリ会社へ連絡をしていた。
第2回目訪問に続く